「ENSO ANGO 茶会+糧菓」とは
4月頭のことですが、京都の分散型ホテル「ENSO ANGO(エンソウ アンゴ)」企画の中国茶会に参加してきました。その名も「ENSO ANGO 茶会+糧菓」
陶作家の安藤雅信氏、台北・茶藝館「小慢」の謝小曼氏が呈茶してくださる貴重な機会!!そしてお茶請けは東京・茶寮「菓子屋ここのつ」さんの創作和菓子と糧菓。
主催者プロフィール
【謝小曼】
ENSO ANGO 茶会+糧菓 2019.3.6
1964年 台湾生まれ。台北と京都に茶藝館、ギャラリー「小慢」を構える。自ら茶農家まで足を運んで厳選した台湾茶、中国茶を淹れる茶教室を台北、上海、京都、東京で主催。
台北の茶藝館「小慢」は数年前に訪れたことがあります。店内でのんびりお茶をいただいて、お土産に茶葉を購入しました。アンティークの調度品に囲まれた、静かで落ち着ける場所でした。
近年、京都にもギャラリーをオープンされたそうです。
行ってみたすぎる・・・!
【安藤雅信(陶作家・ギャルリ百草主宰)】
ENSO ANGO 茶会+糧菓 2019.3.6
1957年 多治見市生まれ。和洋問わず使用できる日常食器と茶道具、現代美術を平衡して制作。2018年「どっちつかずのものつくり」(河出書房新社)を出版。ENSO ANGO FUYA Iの空間を手がける。
安藤氏の茶海持ってます。普段使いとして愛用中( *´艸`)柔らかい白色、しっとり手になじむ肌触り、そして水切れの良さ!!
めちゃくちゃ使いやすいです!
この白が「日本の白」なんだろうなぁと思います。陰翳礼讃でいうところの和紙の温もりと同じやつかと。
作品はネット通販でも購入できます。
【菓子屋ここのつ(溝口実穂)】
ENSO ANGO 茶会+糧菓 2019.3.6
東京・浅草鳥越で、完全予約制の実店舗「菓子屋ここのつ茶寮(和菓子のコース)」を主宰。「日本に古くから伝わる事を身を以て学び、変えなくて良い事と変えていくべき事を和菓子を通して自分なりに伝えていく事が私の仕事です。」
今回のテーマの一つである「糧菓」というのは安藤氏が名付けたそうで、由来は“料理のような和菓子”。
実際に食べてみた感想としては、「なんかすごい」です(語彙力崩壊)。確かに和菓子というよりは料理を食べている感覚。でもやっぱり料理じゃない、あくまで和菓子。・・・という、間違いなく生まれて初めて体験した、摩訶不思議な和菓子でした。
会場がまずかっこいい
お茶会の会場はホテルENSO ANGO FUYA II〈麩屋町通 II〉の1階ラウンジ
外から眺めただけでもかっこよさがあふれ出していてしびれる。
小曼先生の茶席
安藤先生の茶席
冷たいウエルカムティーでおもてなし
お茶会中は撮影禁止
写真撮影OKだったのはお茶会が始まる前の時間のみ。お茶会中は撮影不可でした。
なので、いただいた茶葉やここのつさんの糧菓がどんな様子だったかは参加者のみが知る・・・
ここのつさんの和菓子、本当に美しいので世界観はぜひインスタで見てみてください!
いつかチャンスを狙って東京の茶寮でコース和菓子を食べてみたいです
このお茶会で感じたこと
小曼先生の茶席では貴重な野生武夷岩茶と他2種類、安藤先生の茶席では東方美人と他1種類のお茶をいただきました。お茶は当然おいしかったです。
今回特に印象に残ったのは、二人のお茶と向き合うスタイルの違い。どちらもすごくて、とても勉強になりました。
※もちろん、これはあくまで私自身が感じたことであり、お二人が実際にはどのような心持ちでお茶を淹れていらっしゃるのかは分かりません。
それぞれの愛の形
お茶席はどちらも本当にステキで、どちらにもそれぞれ違った形のお茶に対する愛が見えた。
小曼先生は、包み込む愛、受け入れる愛。海のような、母のような、凛とした多いなる存在を感じた。お茶は美味しいものだと信じているからこその余裕があるような。
安藤先生は、ひたむきな愛、見守る愛。等身大の目線、集中力、あとは柔軟性と大らかさ。茶葉にお湯を注いで蒸らしている間も、じっと急須を見つめていて、美味しくなれ美味しくなれと祈っているようだった。(娘を見守る父親みたい)
小曼先生は、常に一定のリズムで、安定感と安心感があった。台湾でも日本でも中国茶界隈では有名な先生のお茶・・・と思うとピシっと背筋が伸びる思いだったけど、それでもちゃんとお茶の味が身体にしみこんでくるような、リラックスできる雰囲気にさせてくれていた。それは、先生がちゃんと私たち飲み手のことを見てくれていたからだと思う。
安藤先生は、緊張と緩和のメリハリがあった。お茶を淹れるときは、お茶のことに集中しているのが伝わってくる緊張感が。でもそのお茶が無事飲み手の手元に渡ると、ふっとその緊張感が抜けて穏やかで和やかな、素朴なお人柄が出てくる。お茶を淹れるときの緊張感というのはもちろん、人前で淹れることへの緊張ではなく、美味しいお茶を淹れるぞという気合に近いものだった。
お二人とも全然違う方向性で、それぞれのスタイルが確立されている。きっと、二人が同じ茶葉を使って淹れたとしても、その手から出来上がるお茶の味や香りは全然違う風格になるに違いない。
共通していたのは、手の柔らかさ。茶葉を、茶器を大切に思うからこそ、ああいう柔らかさが出るんだと思う。
自分の背骨となる軸
今回のお茶会を通して改めて感じたことは、人には人の個性があって、その個性が遺憾なく発揮されるからこそ、その人が淹れてくれるお茶は美味しくなるんだということ。
ただ形だけ美しく、型通りの所作で淹れても意味がない。緊張してガチガチの状態で淹れても本当の味は出てこない。
あとは、その人の中に背骨となるような軸があること。お茶だけに限らず、もっと広く、人生みたいなものに対する価値観とか精神性とか。そういう軸がある人とない人のお茶もやっぱり違う気がする。
私にはまだ確たる軸がないんだな。ふわっとしたものは出来てきてると思うけど、まだ私を支えるほどの確かなものではない。
「相手を認める」ということ
最後にもう一個大事なこと。
私が心がけるべきは「飲み手を認める」ということ。独りよがりのお茶にならないように。
至極当たり前のことだけど、その一つは相手の目を見ること。小曼先生はさりげなく、きちんと、やっていた。目が合った瞬間に思い出した。そうだそうだ、忘れちゃいけない大切なことだった。